簒奪

 お兄ちゃんは中学三年の秋頃に、突然、遠くの高校を受験したいと言い始めた。
 実家から通えばいいじゃないか。お父さんとお母さんははじめこそ反対したけれど、お兄ちゃんが上手いこと将来のためだとか進学率がどうのと言って丸めこむので、最終的には呑まされた。強引に願書を出されてしまって、そうせざるを得なかったのかもしれない。
 合否結果の直後のバタバタとした内見や手続きの期間は、皮肉にも、私たちに一家団欒によく似せられた時間をもたらした。
 お兄ちゃんが住むことになったのは、高松市の中心にある進学校に徒歩数分で通える物件だ。安アパートでかまわないというお兄ちゃんの主張をやんわりと却下し、お父さんはほどほどのマンションを宛がった。こぢんまりとしているものの、エントランスホールなんて代物がついているのだ。しっかり二階の部屋だったし、お兄ちゃんの背丈にちょうどいい程度の狭さとはいえども、綺麗で清潔だった。おフロの浴槽やシンクもちゃんとしていて、窓から見える景色もそんなに悪くない。
 お父さんもお母さんも珍しく楽しそうに内見に付き合っていた。私も嬉しかった。だけどお兄ちゃんはそのちょっとあとになって「こういう時だけ父親面するんだよな、あいつ。気持ち悪い」と、嫌悪感を隠そうともしないようすで言い吐いていた——そりゃ私も、ほんの少しは思ったけども。
 正直言うと、ショックだった。お父さんのことじゃなくて、お兄ちゃんがこんなに早く家を出てしまったことが。
 あと三年は一緒にいられると思っていた。そして、お兄ちゃんはきっと、実家を出てしまったら最後、もう戻ってこないんだろうなあ。そんな予感は物心がつく前からずっとあったから。
 だから荷解きを手伝って帰るとき、今生の別れでもなんでもないのに、私はつい泣いてしまった。香川県内だし、電車でいつでも来れる距離なのに。子供みたいに泣きじゃくる私の頭を、お兄ちゃんは優しく撫でてくれた。
「いつでも遊びに来いよ。郁美なら大歓迎だぜ」
 その言葉が私にしか向けられていないこともすぐにわかって、私はもっと泣いた。
 お兄ちゃんの後ろに広がる生活感のないリビングはぴかぴかで、窓から差し込む夕日に照らされたフローリングが、オレンジに反射していた。
 なんでそんなこと言うのよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは私をここに、ひとりで置いていくくせに。

 私はお兄ちゃんの言葉どおり、時間を投げ打って頻繁に遊びに行った。
 友達にブラコンとからかわれたこともあるけど、なんて言われたっていい。しかたないじゃない。
 近況もしょっちゅう連絡しあった。お兄ちゃんは高校であったことや、一人暮らしの悠々自適な生活を。私は中学のことを。
 はじめての彼氏ができた時、お兄ちゃんは自分のことのように喜んでくれて、自虐的に「できるだけ長持ちさせろよ」とジョークを飛ばした。私の彼をものみたいに言わないでよと詰ると、けらけらと笑い返した。
 私たちはとても仲のいい兄妹だったと思う。
 お兄ちゃんの笑みはますます美しくなった。時々いい匂いもした。バスケはぱったりやめてしまったけれど、体型が悪くなることはなかった。
 実家にいた頃からお兄ちゃんはずっと綺麗だった。自室もととのえられていた。ベッドシーツが朝起きたときのままの形に歪んでいることもあったし、部屋着やらが散らかったりしていたこともあったけど、そういうところじゃなくて、なんというか、やっぱり綺麗な部屋だった。男の人らしい、普通の親しみが持てる雑さと、入ったときに皮膚に感じる心地いい緊張感が同居している、そんな部屋だった。
 たとえば本棚が、本が日焼けしない位置に置いてあったこと。おさまっている本が、きっちりと横に整然と並んでいたこと。その本のひとつひとつに透明なカバーが巻いてあること。デスクの上のパーソナルコンピューターにほこりが積もっているのを見たことがなかったこと。
 そういうものが全部、お兄ちゃん自身の持つ美しさと、すごく似ていた。
 私はお兄ちゃんが好きだったし、お兄ちゃんのいる空間が好きだった。
 だから離別の悲しみはすぐ、お兄ちゃんの家に遊びに行ける喜びに変わった。

 そのバランスが崩れていくことが私にもはっきり知覚できたのは、彼が一人暮らしをはじめて半年もしない頃だった。
 お兄ちゃんの笑みはますます美しくなる一方なのに、部屋はどんどん汚くなっていった。
 漫画がテラス窓のすぐそばに平積みされており、その横に縛ったゴミ袋が平然と置いてあったことにびっくりして、私は訊いた。「どうしたの? これ」
 お兄ちゃんは笑って答えた。「ゴミの日逃しちゃったんだよ」
「そうじゃなくて、お兄ちゃん、前はこんなに汚い部屋じゃなかったでしょ」
 お兄ちゃんは面倒そうな顔をした。
「そもそも俺、別に綺麗好きでもなんでもねえし」
「そう……だったの?」
「そうだよ」
 私が困惑するのにすぐに気がついて、お兄ちゃんは「悪いな、汚い部屋にいさせちまって」と私の頭を多少乱暴に撫でた。
 そのときに思ったのだ。お兄ちゃんが私を撫でてくれるのは、ひょっとしてなにかをごまかしているだけなんじゃないかって。

 私も高校受験を意識する年齢になった。お兄ちゃんは大学に通おうとしているらしい。きっともっと遠くなる。放課後にちょっと遊びに行ける程度の距離感は、失われるだろう。
 残念ながら彼氏との仲が“長持ち”することはなかった。だけど私の中には幸運なことに、お兄ちゃんの抱くような悲観は残らなかった。
 彼がたびたび口にするコンプレックスに、私もいい加減、気づいていた。お兄ちゃんの結婚式にいつか出たいだなんて、無邪気に願ってみせることもなくなった。たぶんそれって、もう、暴力だ。
 私が呼び鈴を鳴らすと、すぐにお兄ちゃんは玄関を開けてくれた。「よう、郁美、待ってたよ」郵便受けに溜まった封筒の繊維には、コーヒーの香りが潜り込みはじめていた。
 通された部屋はあいかわらず汚かった。悲しいことに見慣れてしまった。
「もう、またこんなに汚くして。掃除していい?」
 この台詞もすっかり唇に馴染んだ。お兄ちゃんの二つ返事を受け取ってから、私は散らばった私物を、空いているあちこちのすきまに無心でおさめはじめた。
「これ、お兄ちゃんの?」
「前の彼女の。いや、前の前のだったかな」
「返さなくていいの?」
「捨てていいよ。多分向こうももう忘れてる」
 私は短い溜息をつきながら、ゴミ袋にピンク色のボトルを突っ込んだ。
 お兄ちゃんをちらりと窺った。ベッドに転がりながら仰向けに参考書を読みふけるお兄ちゃんの見てくれは、変わらず美しかった。だけど、この部屋の汚さにそのまま飲まれて、なんだかなくなってしまいそうだった。外にいるときのお兄ちゃんは、人混みにまぎれても放たれるくらい、鮮烈で眩しいのに。ここにいるとその光は、淡くて脆い。
「ねえ、お兄ちゃん、訊いてもいい?」
「なにを?」
「なんで家、出たの?」
 お兄ちゃんのページを手繰る指が止まった。
 お兄ちゃんはゆっくりと参考書から目線を外しながら、「なんでって?」と笑った。
「絶対この高校に通いたかったわけでもないんでしょ?」
「まあな」
「ウチを出たかったから?」
 分かってるじゃん、とお兄ちゃんは端麗な笑みを崩さないまま返した。
「なにかあったの?」
 お兄ちゃんの美麗が、薄らいだ。
 参考書を閉じると、お兄ちゃんの瞳が滞空するように天井に移った。
「そんなふうに思ってたんだ?」
「だって、なんだかこの部屋」
 私は逡巡した。うまい言い回しがないか探ったけど、思いつかなくて、そのまま伝えた。「いじめてるように見えたから。お兄ちゃんを」
 お兄ちゃんの横顔はぼうっと天井を眺めていた。上向きの鼻梁と、その下に行儀よくおさまる薄い唇のライン、天に伸びあがるような睫。やっぱりきれいだなあと私は思った。私も美人だって褒めてもらったことが何度かある。鏡で自分を見るのはきらいじゃない。だけどお兄ちゃんにはかなわない。だから大切にしてほしかった。いつでも雑踏の中で輝いていてほしかった。これも、暴力なんだろうか。
 お兄ちゃんは口を開いた。
「すごく好きなやつがいたんだ」
 私はとても驚いたけど、ぐっと続きを待った。あまりに平坦な声だったからだ。わずかでも叫喚を上げると、掻き消えそうな気がしたのだ。
「だから、離れようと思ったんだ」
「……フラれたの?」
「いや、そもそも告ってないよ。ちょっかいかけてただけ」
 どういうことだろう。
 眉をひそめると、お兄ちゃんの首がそっとこちらへ回った。私の眉間のしわを見つけたとでも言わんばかりの、打算的な笑みで。
「だけどあいつ、きっと俺を本気で好きになってくれるだろうなって、わかっちまったんだ」
 その表情は、白くて、全然、眩しくなかった。
 それなのにすぐに思い浮かんだのはやっぱり美しいということばで、私は私の感性が、少し怖くなった。
「だから離れたの?」
「そう」
「わけわかんないよ」
「郁美には早かったかな」
「お兄ちゃん、私もう、十五歳だよ」
「甘いな。俺はもう十八だ」
「ごまかさないでよ」
 お兄ちゃんは起き上がった。悠然としたふるまいを貼り付けたまま、郁美は可愛いなあと言った。もう三年も前のことだぜと肩をすぼめるお兄ちゃんを、うそよ、追及しようと思えばできた。けどしなかった。
 私はゴミ袋をしっかりと縛ると、できるだけ対角の、ベッドとは正反対の位置に置いた。それからお兄ちゃんに近づいた。お兄ちゃんは腕を広げると私を軽く抱え込むようにして、ぞんざいに撫でた。
「そんなに寂しがるなよ。またいつでも遊びに来いって。郁美なら大歓迎だぜ」
「それ、前も聞いた」
「記憶力いいな、おまえ」
 置いてかないで、とは思わなかった。かわりに、行かないでよ、と思った。
 伝えると、お兄ちゃんの眉の形がハの字に歪んだ。きっと私の前では、お兄ちゃんは幾分か素直をあらわす。お兄ちゃんの思い描くひとは、おおかたまだ、知らない。去っていくお兄ちゃんを追いかける権利を与えられているのも、世界で私だけだ。そのひとには、ない。
 そのことへの、切なさ。やるせなさ。息苦しさ、そら恐ろしさ。
 その裏に香る、ほんのかすかな、仄暗い、かんばしさ。