めらめき

 杉村の疲労は誰の目から見ても明らかだった。実際問題、自分たちの関係は限界に程近い。想いの実存だけは確かなのに、それが不思議だった。
 炎だ。三村との関係を端的にあらわすなら、そういう比喩に落ち着くだろう。愛の炎なんて口触りのいいものじゃない。最初のうちこそめらめらと燃えていた覚悟は、祭りの後のように萎んでいる。焚べ続けた薪の数を数えたとき、考えずにいた徒労の存在を意識してしまう。
 なぜ逃げるのだと杉村は訊いた。荷物は少ない方がいいからと三村は答えた。
 杉村はそれでも背負わせたかった。いつかその重みの心地よさに気がつくはずだと、無根拠に信じていた。付き合い始めた頃の話だ。
 杉村は大きな息をつきながら、ベッドに全身を預けた。「幸せが逃げそうな溜息だ。誰への当てつけ?」三村が嗤った。杉村は睨む気力もなく三村に視線を投げた。逃げてるのはお前の方だろと念じながら。
 潮時なのかもしれない。胸には諦観が吹き荒んでいた。つまり——自分たちは、同じ生き物にはなりえない。
 どんなに身体を重ねても、心ごとひとつになれたと錯覚することがあっても。せいぜい、慮る程度にしかなれない。本物の理解には遠い。ライトに照らされた三村の笑顔の真横にできている、真っ黒な落ち影。なんでそんなに頑ななんだよと、幾度も毒づきたくなった大いなる夜。
 三村はサイドデスクの上のライターに手を伸ばし、煙草に火をつけて言った。
「なあ、もう別れようぜ」
 俺の家で吸うなというお決まりの文句が、喉まで出かかって消えた。くゆる煙の行先を眺める。三村が煙草を吸うのは、どうしようもなく苛立ったときだけだ。
「お前、ずっと疲れてる」
 見透かしたような瞳を細め、三村は片方の口端を器用に吊り上げた。ほらな、言ったとおりだ。そんな声まで聞こえる気がする。
 杉村はほとんど無理やり、返した。
「なにもかもがお前の思い通りに行くと思ったら、大間違いだ」
「なあにそれ」
 三村は煙草の先の灰を灰皿に散らしてから、ふたたび口に挟んだ。
「優しさで提案してるんだぜ、俺は」
「優しさ? 自分のためだろう」
「……なかなか痛いところ突くね」
 煙草の先がかすかに震えていた。杉村の大嫌いなヤニの臭いが、鼻の下をくぐっていく。嗅ぎ慣れてしまった、甘く苦い、乾燥したいがらの霧。この香りはいつも強い。三村の匂いが消えていく。
「ならお前は別れたいのか?」
 杉村の声がその中を突き抜けると、三村は決まって苦笑いを浮かべる。
 そんな顔をするくらいなら、はじめから言うなよ。
 言ってのけるのは簡単だった。けれど、三村にとってはそうじゃない。それを学び始めたころから、杉村はこの台詞を口にしなくなった。
 杉村は食傷気味に三村の肩口を見やった。裸の白い肩にじっとり浮いた汗はすでに乾き始めていて、その証拠に、杉村の芯でくすぶった熱もあっという間に冷めていた。次のセックスが今度こそ気持ち良い保証なんて、誰もしてくれそうにない。
「別れたいわけじゃないよ。でもさ」
 三村は煙を一杯に吸い込み、うまそうに吐き出しながら続けた。
「いい加減かわいそうだ、お前が」
 すぐに怒るべき局面だったが、杉村は口を開かなかった。
 かわりに思った。かわいそう、か。そうかもしれないな。いつになったらお前をこの場所に縫い留められるのかもわからないまま、拙いやり方を繰り返して、ずっと疲弊している。終わりのない反復作業をあわれだと呼ぶのなら、そうだ。
 杉村は、なんだか長々と愚痴りたくなって、つい嘲笑った。
「ひとつ、不器用な男の話を聞いてくれるか」
「聞きましょう」
 三村がわざとらしく顎を引いたのを見て、杉村はゆっくりと語り始めた。
「男もそろそろ、不毛だと勘づき始めているんだよ。なにせ――そいつのパートナーは、とんでもなく強情で、屁理屈ばっかりで——いつまで経っても、しあわせってやつを実感しようとしない……」
 煙草が差し込まれた三村の唇が、可笑しそうに歪む。
「ほかにも文句はたくさんある」
「たとえば?」
「男が真面目に話しているのに、すぐに茶化すところ。素直に謝れないのもいただけない」
「ずいぶん面倒なやつと付き合っているんだな、その男」
「そうなんだよ。だけどこれには男の方に問題があって――」
 言葉を切ると、三村は意外そうに瞼を開いて杉村を認める。杉村はその目線を受け止め、口元に浮かべた冷笑を深くした。
「もう、意地なんだ。勝負かなにかだと思ってるんだ」
「恋人との?」
「いや、自分との。別れ話に乗じれば、自分でそいつを選んだっていう過去の選択を裏切ることになるだろう」
「それは——不器用だな」
 三村は鼻で笑ったが、侮蔑にしてはどこか愉しげだった。「自分のことくらい許してやったらいいのに」お前が言うなよと杉村は苦笑した。
「じゃあ、そいつはいつになったら面倒な恋人と別れる気になるんだろうな」
「俺にもわからない」
「お前からもなにか言ってやれよ」
「それは無理だ」
 和やかな掛け合いだった。こうして一枚隔てれば、ふたりの間を漂う倦怠もうすらぐ。ふたりに今もっとも必要なものは、その美しい紗幕なのだ。——だが杉村には、到底そのアドバイスは贈れそうになかった。
 無理なのだ。霧でも幕でも、どんななにものでも、隔てたくなかった。結局。
 杉村は三村の指から煙草をつまみ上げた。三村の批難をよそに、口にくわえて吸う。吐き出す。はじめて吸った煙は不快な脂っぽさを含んでいるのに、どこか柔軟に体の中に染み入っていく。心が蝕まれているときくらいは、許容してやってもいいだろう。
「不味い」
 そのまま灰皿の上で押しつぶす。三村は唖然としていた。
「おまえ、煙草絶対吸わねーって言ってたのに」
「ああ、言ったな」
「気が変わった?」
 杉村は逡巡してから、三村の頭に手を置いて、細い髪を指の腹で撫ぜた。
「俺の気は、一度も変わってないよ。わかるだろ」
 長くけわしい夜のうちで、はじめて視線が合った。
 三村は目を瞬かせてから、わずかな抒情をその表情の中にたたえ、ただ一言、
「……ほんとにバカだな」
 と呟いた。
 応酬はもう、なかった。終わったのだ。杉村はベッド脇の窓に映るつまらない夜景を目に止めながら、片手でずっと三村の頭を撫で続けていた。
 三村の見立ては、正しい。かわいそうでバカだ。たったこれしきの感触で焚べ続ける手を止められなくなる、バカで愚かで不格好な男だ。
 杉村は一度だけ、むせた。