「いいな」
煙草をくゆらせながら笑う川田は、杉村にとって三村以上に難しい存在だ。
“マトモに会話できる”という点では、なんら難しいことはない。それでも緊張感がおとなうのは、ひとえに川田の見ている世界が、杉村より遥かに広いからに違いない。
「それは——皮肉か?」
杉村は警戒気味に訊いたが、川田は「違うよ。本心から言ってる」と肩をすくめるのみだった。怪しみすぎたようだ。杉村はほっと肩の力を緩め、それからすぐに「本心?」と訝しんだ。
「どのへんが?」
「いいじゃないか。仲がいい証拠だ、それは」
杉村の中に奇妙なこそばゆさが走った。子供扱いされているからだ。おおむね大人びていると見られる杉村にとっては、慣れない感覚だ。
川田はふっと煙を吐き出した。どこかいたずらっぽい光を目に宿しながら、もくもくと空に昇っていく煙を眺めている。
「“今この瞬間を大切にしとけ”なんて先輩面するわけじゃあないが、もう少しはっきりと可愛がってやってもいいんじゃないか」
「あいつを?」
杉村は思わず身を引いた。川田はそれをチラッと見て、くつくつとニヒルな笑みを漏らした。「お前も年相応なところがあるんだな」やはり慣れない。
第一、ここで「では具体的にどのようにすべきでしょうか」などと講釈を求める関係でもない。杉村はすでに若干、居心地の悪さを感じていた。校舎裏で暇を潰していた川田を見つけたので、なんとなく声をかけたまでだった。
息が白む季節になり、B組の景色に馴染んで久しい。しかしいまだに侘しさを感じる川田の背中は、適度な孤独を好む杉村のそれとは根本的に異なっていた。
自ら話しかけておいてカードに困ってしまう、口下手な杉村である。ありがちな話題でも振ろうと模索していると先んじて突き付けられたのが、よりによって、これだ。
「にしても、教室で見ているのと随分印象が違うな。お兄ちゃんの話す三村」
「俺の前でだけああなんだ」
「我儘で奔放で?」
杉村は頷いた。川田の目元には相変わらず座りが悪くなるような優しい物笑いが滲んでいる。滅多にない機会だからと、胃が痛い日々について語りすぎたようだ。これではまるで——そんなことまで浮かんで即座に取り消した。ない。ないない。
「そうだろうと思ってたよ」
川田は脇の空き缶の中に煙草を沈めてから予想外の言葉を口にした。杉村が訊ねると、川田は「そこまで話したことがあるわけじゃないが、そういうタイプだろうと思ってた」と特有の笑みを唇に描いた。
杉村は川田の観察眼に静かに感嘆した。「すごいな」と思った。うそではない。
しかし口をついて出たのは賞賛でも同調でもない、低い威嚇だった。
「……なんでわかる」
杉村は、自身の唇から漏れた言葉をいささか妙に感じ、眉根を寄せた。変な顔つきだったのか、それとも別の理由か、川田は再び肩を揺らして笑うと「そういうつもりじゃなかったんだ。悪かったな、妬かないでくれよ」と両手を挙げて降参の構えをとった。
「妬いてない」
「ははは」
そういうことにしておくよ、と川田は胸ポケットからふたたび煙草を取り出して吸いはじめた。本日何本目になるのだろうか。
「いいなと思ったんだ、そういうの。——からかってるわけじゃない。教室で顔を合わせる程度でしかない俺の目から見ても、お前たちは仲が良さそうに見えた」
「俺と三村は友人だ。なにか勘違いしているみたいだが、別に変な関係にあるわけじゃ」
「わかってるよ」
川田があっさりと引いたので、杉村は肩透かしを食らった気分になった。ひょっとするとこれが、波風立てない成熟した距離というやつなのかもしれない。珍しいことに杉村は、多少悔しくなった。
会話が一旦途切れて、校舎裏は静まり返った。枯れた木々のささめく音。杉村はふたたび困った。
恋愛めいた話題を続けたくはなかった。それは三村との関係を暗に認めるも同義だからだ。自分が好きなのはあの小柄でお茶目で、姿勢がきれいで、品があって可愛い彼女であって——三村は全然違う、品とは程遠い。
続けるのが自然かもしれない。けれども川田には亡くした恋人がいるとかなんとか、眉唾物の噂を耳にしたことがある。噂を鵜呑みにする杉村ではないが、この謎めいた男の前では、カードは適切に切るべきだと思った。
切り間違えたとしても、川田なら鮮やかに打ち返すのだろうけれど。
弱りながら視線を彷徨せていると、川田の方がまた先に口を開いた。
「七原がな」
杉村はすぐに、談笑する川田と七原のイメージを思い描いた。川田と唯一気さくに話せる間柄といったら、彼だけだった。
「以前言っていたのさ。俺と三村は少し似ているんだそうだ、ヤツからしてみればな」
頭の中の七原が身振り手振りを交えて話すのが容易に想像できた。
杉村はさらに思惑を巡らせて、川田と三村の共通点を辿った。皮肉気な微笑、こちらの数十歩先を読む回転の速さ。知識の幅、冗談の質。いくらか掠って——わからないでもないが——わからない。杉村の知っている三村は、もっと往生際が悪いし、気取っているし、マトモに会話ができない。
「……似ているとは思えない」まったく素直に述べた。「お前とは、大人と話しているような感覚だ」
「つまり?」
「あいつとは、とんでもない子供を相手している感覚に、よく陥る」
川田は弾けたように大笑した。それで杉村も、ようやく口端にかすかな苦笑を乗せた。じりじりとくすぶっていた説明のつかない焦燥が、共感に変わったのだ。ぴんと張っていた自意識の糸がたわむのが、杉村にはわかった。
「いいな」川田は再度繰り返した。「いいと思う」
「よくないよ」杉村の声に気安い柔らかさが混ざった。「あいつを真面目に相手してみればわかる」
川田は少し考えてから「俺は遠慮するよ」と伝えて、杉村も「その方がいい」と思った。
そこにチャイムの音色が差し込んだ。ふたりは同時に校舎の方を見上げた。川田が「もうこんな時間か」と腰を上げたので、杉村も立ち上がった。長い昼休みだった。
「気を遣ってくれてどうも。おかげでいい時間になったよ」
川田が杉村の肩を親しげに叩き、横を追い越す。その背に続くとき、ふと頭の中のイメージが、さらに形を変えて現した。
昼下がりの教室で歓談を交わす川田と七原の姿。そんな七原目当てに声をかけるクラスメイト。持ち前の話術とジョークで、するりと輪に入る川田章吾。何気ない一年弱、幾度となく目にしてきた光景。してきた……気がする。
(——気を遣う必要はなかったかもしれない)
顔に渋い皺が集まるのがわかって、杉村は混乱した。川田は大きな肩越しに振り返ると、案の定愉快そうに笑った。