ルールを飛び越えろ

 それって実は奇跡的なことで。
 七原がバカみたいに手を振るたび、俺はいつも思う。また明日。その言葉を疑ったこと、お前、ある? ないんだろうな。
 いや、ないなんてことはないか。俺は七原が慈恵館に入っていく光景を何度も見たことがある。これは少し乱暴な物言いだった、悪かったよ。
 ではそれなら、その言葉がいかに空しい響きを伴っているかをわかりきった上で、七原はそれを扱い続けてるってことになる。すごいことだ。
 だけど俺はこんなふうにも思う——七原のことだ、そこまで考えてないだろう、きっと。ダチに対してあまりの言いぐさだって? そんなもんじゃないか? すべてを見上げることの危険性を考えてもみてくれよ。見たまえ、沼井充のあの姿を。
 また明日。生死の極限を置いておくにしたって、結局奇跡に変わりはない。友人と毎日顔を突き合わせられるのは学生にだけ与えられた特権なんだってことを、十五の俺たちはついつい忘れがちだ。
 この世界にはとある法則も存在している。ジャネというえらい哲学者が発案したものらしい。また明日を織り重ね続けている俺たちは、超速のスピードで人生を消費していると言ってもいい。消費だ。無くなっていっているんだ。無限というものは存在しない。有限を消費し続けた先になにがあるのか、少なくともお前はちっとも考量したことがないはずだ。そうだろ?
 たとえば、このカレンダー。
 俺はカレンダーの一番上をちぎって捨てた。二月の冬景色がプリントされた面があらわになる。つまり超速の消費って、これだ。
 まじめに掃除しなさいよ。内海がサボり組を叱った。
 散った蜘蛛の子のうちのひとりが俺の背にぶつかった。いちいち顔を確認せずとも、おおかた正体の察しはつく。独特の狭すぎるパーソナルスペース。ちょうど思考の主題にいたやつだ。
「あと一ヶ月かあ」
 七原は俺の肩に顎を乗せ、二月のカレンダーを見つめた。どうせしょぼくれた顔をしている。俺は一笑に付してやった。
「そんなに卒業が嫌かよ?」
「嫌だよ。だって俺たちのクラスって、結構いいクラスだっただろ」
 なんでもない日にそんな美辞麗句を恥ずかしげもなく言い放てるのがすごいよな。俺は心からの賞賛と皮肉をミキサーにかけながら思った。
「俺はそうは思わないけど。このクラスの女の子には、俺、不人気だったし」
「それは三村が悪いだろ」
 耳元で七原がけらけらと哄笑した。俺は振り向きがてら七原の身体をそっと引き剥がした。モップを携えた七原は大きな瞳を寂しげに細め、いかにもちょっかいをかけたくなる風貌を形作った。
「きっと疎遠になるやつも出てくるだろうし。高校に行きたくないわけじゃないけど、俺やっぱまだ、このクラスにいたいよ」
「たとえば俺とか?」
「まさか!」
 七原は何度も首を横に振った。それからうら寂しさをさらに強めて「なんだよ、三村は卒業したらもう会ってくれないのかよ」
 そのつもりだよ。もしここでそう言ったら、こいつ、どんな顔するんだろう。
 俺の中にきつめの悪戯心が沸いた。それをちょっとまろやかに誂えて、
「だとしたら?」
 とお出ししてやった。
 すると案の定七原の精悍な眉尻が悲憤を孕んで吊り上がった。やっぱり面白い、こいつ。福笑いみたいで。
「俺のこと嫌いなのか?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ会ってくれよ」
「どうしようかなあ」
「俺はお前が嫌がっても会いに行くからな」
 その言葉に、ひとまず舌を差し止めた。やりすぎると七原の目つきには大抵真剣が灯った。俺にとってはそこが引き際のラインだ。俺はふっと鼻で笑った。「情熱的で参っちまうな」
「お前がそんな寂しいこと言うからだろ」
「冗談だって。俺たちの友情はそんなことじゃ終わらない、だろ」
 きざったらしく、寄せた。だいぶ適当に。
 だけどシンプルな頭の七原には効いたみたいで、「だよな」顔全体を綻ばせた。喜んでいるようだった。
 俺は七原の消費を憂いた。そんな感じだろうな、お前は。重ねた出会いと別れが分厚いほど、お前の現在から俺が遠のくんだ。それもあっという間にだ。お前が自覚的になるより先に、俺もこの教室も、加速して過去になっていくはずで。
 それに。俺は七原の、健康な立体感がある唇に浮いた笑みを眺めた。
 たぶん七原の消費は、激しい。俺とはだいぶ異なった意味で。
 たまたま交わっているこの瞬間もまた、一介の奇跡でしかない。俺が冗談を言って七原が笑い、七原がおどけて俺が笑う。それもこの世にルールとして存在している、運命の、偶然の産物だ。だから砂の城みたいに消えるのが道理なんだ。そういうルールなんだ。
 運命って。
 最も嫌いな単語に見事に踊らされてしまっている己が見えて、まあまあ不快になった。わかっちゃいたけど、俺ってやっぱり、そういう人種なんだなあ。
 スピーカーから垂れ流れていた退屈なクラシック曲が、チャイムの音で中断した。周囲のがやめきが一層強くなり、内海も、ほかのやつも、鞄を持って出ていった。
 七原も鞄を担ぐと、予想しきっていた挨拶を投げかけてきた。
「じゃあまた明日な、三村」
「おう」
 同じ言葉は返さなかった。一種の意固地だ。
 廊下に飛び出す七原の背に、俺が本当に期待しているのは、決まりきった運命論なんかじゃない。
 ジャネさんとやらはどう思います? 俺は禿げ上がった頭ともじゃもじゃの白髭に包まれた皺面を勝手に想像した。
 消費の先にあるのって、やっぱり若かりしへの永遠の執着なんですかねえ。