オーバーラン

「歳食ったら終わりだって思ってたんだよな」
 三村がそう語る理由は今も片方の耳朶に輝いている。若い頃から肌身離さず付けている。もうだいぶ年季が入ったはずだけれど、変わらず大切にしていた。
 ピアスを手持ち無沙汰に弄る片手には、過ごした時間も刻まれていた。当時に比べれば幾分か滑らかさを失った皮膚。細かな傷は反政府活動で負ったのか、引き攣れて痕になっていたが、もう痛むこともないようだ。器用にやっているんだろうが、よくもまあ、今日まで自国に居続けられたものだ。
 三村は明後日、この国を発つ。
 いよいよここにはいられなくなったと彼は語った。ひとまずは仲間の手を借りてアメリカへ渡るのだという。その先のことは考えていないとも。
 俺も、深くは聞かなかった。あえかに続いてきた綱渡りのような縁だったが、いよいよここで切れるのだという確証があった。おそらくもう交わることもない。
 奇しくも明日は、彼の叔父の命日らしい。安物のビールジョッキを見つめる彼の目は、もはや俺のことを映してなどいなかった。
 俺たちはもう二十代も後半を数えていた。四捨五入したら三十だ。旧友の多くがすでに家庭を持った。俺自身の縁談も、少し流れに乗り遅れたが、まとまりつつあった。
 三村は数年前に、妻子を持つ人生をキッパリ諦めたと述べていた。それは枷で、時に弱点になると。その言い切りは、若さでもあった。気が変わるのではないかと俺は伺ったが、その時の三村は、変わるかもな、と曖昧に濁すのみだった。
「だけど俺はなんだかんだアラサーになった」
 ビールを煽る袖口から覗く腕時計は上等なもので、精巧で、こだわりが感じられた。もはや彼の新しい趣味のひとつになっている。大人になってから良さを知ったのだという。
「そうだな」俺は首肯した。「まさかお前がこの歳まで生きるだなんて思わなかったよ」
 そこまで生き急いでねえよと彼は笑った。よくも言えたものだ、ちらと考えたが、確かに三村は、目的のためなら齧り付いてでも生き続けるのかもしれない、とも思った。今はどうか知らないけれど、少なくとも当時は、がつがつしていた。
 いつか落ち着くのではないかとも訝っていたが、アメリカに発つことになったというのであれば、そういうことなのだろう。
「この国は、十分ましになったと思うんだが」
 十数年経って体制も少しずつ変わってきた。あの悪名高いプログラムも廃止への動きを見せはじめている。インターネットの普及を契機に独裁政治の綻びが外部に流れ、共和国は諸外国間での地位を徐々に失いつつあった。少子化もあった。
 もういいのではないか、俺が口にすると、三村はジョッキに目を落とした。
「そうだな、もういいかもしれない——たとえば、それこそ所帯を持って、朴訥とした人生に興じるなんてものもな」
 だけど、と三村は言葉を切った。止まり方ももう、今更わからないもんでね。
「ていうか、止まったら死んじまう気がするんだな。それこそ」
 片方の口端を吊り上げる。俺は頷けなかった。なにも走ってい続けていなくたって、生きていることはできるのに。
 
 三村の冗談好きは相変わらずだったが、ビールをかっ込んで旨そうに感嘆の息を漏らす姿は年相応だ。財布を忘れてきて、俺が全部払ってやった時のことをふいに思い出した。あの時の金は、結局返してもらったんだったか、それとも奢りということになったんだったか。
「寂しくなるな」
「一応そんなふうに思ってくれるんだ?」
「まあな」
 ガキの頃からこいつはやんちゃだった。七原や瀬戸あたりと組んでなにかやっていて、横で混ざりもせずに読書に興じていた俺が、なぜかやつらとともに計上されて、付けられたあだ名がスリー・オブ・ジャスティス。どのへんが正義なんだ、俺はちゃらんぽらんで女遊びばかりしている三村を指して思ったものだが、己の正義のために戦い続けるこいつを見てきた今では、そんな文句もつけられなくなった。
 親友でもない、ましてや恋人でも。昔ちょっとクラスが一緒だっただけの級友。出立の前日は瀬戸のために時間を取ったのだというから、俺はその程度のポジションだ。だけど、だからこそ、最後ばかりは吐露してやってもいいかと思った。
 程よく酩酊した三村は、機嫌よさげに顔を赤らめた。
「お前も幸せになれよ。結婚するんだろ?」
 杉村の子供の写真見たかったなあ、と、少しも思ってもいないだろうことを調子よく嘯いた。彼の手の中にあるジョッキの中身はほぼ無くなっていた。新しい酒を頼もうというので、俺も慌てて、全く減っていないビールを胃の中に流し込んだ。
 それから三村は、自分が発ったあとに何か公僕に突っ込まれたら、知らぬ存ぜぬを突き通せ、と口を酸っぱくして言った。言わせているのは俺だ。元々三村は黙って発つつもりだったそうだ。それを友人の伝手で耳にして、最後に会わないかと誘ったのだ。だからこの狭苦しい居酒屋にいる、わざわざ個室まで取って、こうしてあとのことへのいらぬ心配までかけて。
 正直、迷った。未練がましくなるのではないかという不安があった。けど、楽しそうにしている三村を見ていたら、誘ってよかった、と素直に思った。
 ささやかな宴も進み、時刻が過ぎて、皿の上の食事も空になってだいぶ経った頃合いで、三村は勘定の話を出した。言われて財布を取り出すと、いや、と一度否定を挟み、すぐにしまわせられる。かわりに己の財布を出して、札を数枚多く突きつけてきた。
「今日は俺が奢ってやる」
「どういう風の吹き回しだ?最後だからって…」
「そうじゃなくて、いつだったか飲んだ時に立て替えてもらって、それから返してなかっただろ」
 覚えていたのか。
 てっきり踏み倒すつもりなのだと思っていた。そして、それでもよかったからせびってこなかった。三村に金を貸している状況それこそが、この、いつ切れてもおかしくない、細くたなびく縁をかろうじて繋ぎ止めるものだったから。
 俺は一度、金を受け取った。ぱりっとした、折り目ひとつないおろしたてのピン札。このためにわざわざ準備したのかという想察は、あまりに邪推だろうか。
 三村は、札を手に取ったまま動きを止めてしまった俺を不審がったようだった。「…杉村?」
 俺は逡巡し、一糸乱れぬ姿で揃えられたその札を、三村に突き返した。
「お前が持っていろ」
「え? でも」
「いいから。今日のも、俺が払う」
 金を貸したままだからって、三村がわざわざ返しに戻ることはもうないだろう。走り続けるとはそういうことだ。いちいち脇目を振り返ってスピードを落とすことはない。俺だって別のステージに進む。こいつみたいな速度で走ってはいないけど、過去を振り返る暇もない程度には、日々に揉まれて生きている。
 だけど、そうしなければ、三村はこの先、一度も振り返らないような気がした。パスも振らず、ゴールに一目散に駆けていった、バスケの試合の時のように。
 放たれた送球に三村は首を傾げていたが、俺が伝票が挟まったバインダーを回収するのを見ると、その疑問も霧散したらしかった。
「まあいいか、奢ってくれるってんなら」
 コートを羽織り個室を出て、がやつく店内の廊下とその間を漂う独特の酒や油の匂いを抜け、レジに向かう。エプロンを巻いた店員にバインダーを差し出し会計をする。合計をはじき出した店員に、自分の財布からよれた札を何枚か渡す。三村は清算を待っている間にキシリトールタブレットを口に放り込み、いくつか咀嚼したと思ったら、そのまま引き戸を開けて先に外に出ていった。
 釣銭をもらい、なあなあに店員に礼を言うと、俺もすぐに外に出た。引き戸を一歩踏み出すと、賑やかで暖かい店内から一転、肌寒い風が頬を吹き刺す。そのある種無情な温度が、一気に酔いを覚ましていく。
 三村は電話をかけていたようだ。ちょうど折り畳みの携帯をぱちんと閉じるところだった。それをコートのポケットに突っ込むと振り返り、「サンキュな」と礼を述べ、薄笑った。
「今日は楽しかったよ」
「それならよかった」
「元気でな」
 上目遣いの瞳は、言葉より雄弁に、今生の別れを物語っていた。特別なものをかすめるでもない、ただ、目前の別れを認めたに過ぎない静かな視線。
 お前もな。月並みで、なんの衒いもない台詞が唇の上に乗った。微妙な沈黙は、心地よくも座りが悪く、そして酷薄だ。
 そうしていると、きっ、とブレーキが鳴いて、目立つ外装の国産車が横に停車された。三村が呼んだタクシーだろう。お前のも呼んどいたから、彼はさらりと言った。俺が今恋人と暮らしている家は、三村のとは全く別の方向にある。
「じゃ」
 三村がタクシーに乗り込み、運転手と数言交わす。そのドアがオートで閉じられかけた時、俺は、それに手をかけた。
「金」きょとんとした表情、その中央にある、澄んだグレーの瞳が、最後に焼きついた。「返す気になっても、構わないんだぞ」
 三村は俺の台詞を飲み込んだあと、何言ってるんだよ、と、風がぬるいものに変わるように、笑った。
「そこは“返せよ”だろ」
 そして、
「またな」
 俺が手を離すとドアは閉じられ、ガラスの向こうに収まった三村は、笑みをそのままに軽く手を振った。乾燥した、小疵の浮いた手に行儀良く収まったシルバーのリングが、象徴めいて輝くのを目にした。
 そのままタクシーはゆっくりと前方に動き出し、のろのろと、しかし振り返らずに、走り去っていった。その姿を俺は、見えなくなるまでずっと、見送っていた。