偽証のひなた

【一】

 あたしがその家にはじめて足を踏み入れた時、そこにすでに彼はいた。

 その時、京の空には幾重にも散り際の白い花が舞っていて――それを桜という花なのだと後から知った――、頬を撫ぜる空気はまるではじめて下界に降り立ったあたしを歓迎しているようだと心が浮き立った。だけどいざ屋敷の中に足を踏み入れてみれば、そこには仏頂面ばかりが並んでいたから、率直に面食らったものだった。
 あたしがはじめて知った、ひとのかたちをしたものとは、新緑の間を吹き抜けるさわやかな風のごとき父であったから、桜並木の中にこれほど静かに波打った、けれども湖ともちがう――淀んだ水瓶が転がっているとはにわかに信じがたかったのだった。そんなあたしを真っ先に連れ立ってくれたのは日光という、これまた晴れやかな名前のあたしの祖母で、そんな彼女をわずかに父に重ねたことを今でもよく覚えている。

 その時に外で聞いた話では、あたしの母である日華と、彼女と同時期に生まれた現当主の良夜はたいそう折り合いが悪く、快活でいて大人びたお祖母さんでさえも、彼らの空気は如何ともしがたいということだった。
 地上での生活にいくつかの夢想を馳せていたあたしは少し残念に思ったものの、それよりも気を引いていた、ある箇所におおいに興味をそそられていた。
 窓から差す春の温かな日差しのすぐ横の、ちょうど濃い影が造られる三角形の隅っこの中に、まるで手足も出さんとするようにじっとしていた少年。
 ひとりだけ春になり損ねたみたいな顔をした、それがあたしと帳との出会いだった。

【二】

 形式ばった歓迎ののちに、あたしは短い生涯を打ち込む職業を決めることになった。身にまとう装束と、鍛錬を費やす武術を選ぶのだ。
 あたしは拳法家というものを選んだ。あたしを教えるのが拳法家であるお祖母さんだというから、ならば同じものを選んだ方が教えがわかりやすいだろうというだけの理由で、深い思いはなかった。
 単純な理由で大事な選択を終えてしまったあたしをお母さんは少し咎めたが、お祖母さんはゆったりと笑って、それくらいの気軽さでいいよと呟いた。
 そんなあたしの横で、帳は軽ごしらえの戦装束に身を通していた。それも真新しくはなくて、昔の先祖が着ていたものをイツ花が彼の背丈に合わせて繕い直したということだった。
 いかにもやる気のなさそうに背を曲げて初陣に出ていった帳が、ぐちゃぐちゃになって帰ってきたのは、半月と少し後のことだったと記憶している。

 立派な拳法家になるための訓練は、存外楽しかった。お祖母さんの教え方が上手かったのかもしれない。単に装束が気に入っていたというのも、あたしにとってはそれなりに重要だった。
「筋がいいね」
 お祖母さんは額の汗を軽く拭いながら笑う。
「もしかしたら、新しい奥義なんかも作れちゃったりして」
「ええ?」
 あたしは苦笑いで返した。
「良夜さんは、あたしはそんなに素質がないって言ってたよ」
「アイツ、そういうところ、歯に衣着せないからなあ」
 おばあさんは眉尻を下げて頭を掻いた。けれど咎めるような言葉とは裏腹に彼女の口調は穏やかで、良夜さんを嫌っているわけではないらしいことは幼いあたしから見てもすぐにわかった。
「わかんないよ。子供の成長ってのは誰にも読めないものだからサ――」
 そうシャキシャキと答えたおばあさんの口元がふいに歪み、止まった。
 つられて振り返ると、そこには能面のような顔をした良夜さん、後ろに俯いた日華さんがいて、その上にぐちゃぐちゃの何かがおぶさっていた。
 それが水と血にまみれてしとどに濡れた帳だということを理解するまでに、もちろん時間はかからなかった。
 それまで、呪いが間近に迫っているとはとても思えないほどいきいきとしていたように見えたお祖母さんはさっと血相を変えて彼らに駆け寄っていき、そんな彼女の横顔が年相応に弱り込んで見えたことで、あたしはやっとことの重大さを理解したのだった。

 帳はすぐに包帯や添木でぐるぐる巻きになって、彼の細くて白い印象をより不健康に彩るようだった。
 そんな彼にあたしの面倒を言いつけて、素知らぬ顔で良夜さんはお母さんを連れ討伐に出掛けていった。
 お祖母さんがいればどんなによかったかと、あたしは内心気が気でなかった。あれからほどなくして、お祖母さんはそのまま心労に倒れ亡くなってしまった。
 仮面を顔に貼り付けたような良夜さんと、憎しみや怒りや悲しみをないまぜに彼にぶつけてばかりのお母さんとに挟まれたあたしたちにとって、ちゃんとした大人とはお祖母さんのことを指している。だけど彼女は呪いに倒れてしまった。
 鬱蒼と隣に立つ帳をそっと見上げる。だけど彼はあたしの想像に反してどこ吹く風といった顔をしていて、たった一言「やるか」とぼやいた。
「なにを?」
「訓練」
 驚くあたしを一瞥すると、「実践以外にもできることがあるだろ」と踵を返し、中に戻っていく。その答えはあたしよりずっと術に長けた彼らしくもあり、だけどそれだけじゃないある種の感情をあたしに抱かせた。
「痛くないの?」
「大した傷じゃねーよ。それにあのクソヤロー、どうせ時間が経てば治る傷よりお前の訓練重視だったみてーだからな」
 ぶっきらぼうに笑い飛ばすその表情は、ここに着いてからの短い時間でさえも幾度となく目にした見慣れたものだ。それを自嘲と呼ぶのだということを、あたしは単語の名前より先に知っていた。
「とばちゃん」
 わずかに逡巡してから、そうと悟られないよう呼んだ。無遠慮で恐れを知らないふうに聞こえるだろうその声音は決して演技じゃない、まごうことなきあたしの性質だ。
 だけどその時ばかりはそれを手繰り寄せるような気持ちだった。きっと後から知った、焦燥感という名の気持ちが理由に違いない。
「…あたしがとばちゃん守ってあげる。逐電ごっこしよ!」

【三】

 あの時本当に逃げていれば、何かが違ったのだろうか。
 イツ花さえいなければ、帳が天に召し上げられることもなかったのかもしれない、そんな不遜なことを考えているということをきっと当の本人は知らない。

 あれからいくつかの死があった。最初にあたしのお母さんが紅蓮の祠で焼けて死んだ。次に良夜さんが呪いに葬られた。最後に帳が、肉の檻だけを残して遥か遠くに去っていってしまった。
 ひとつひとつに心を痛めていたわけではなかった。実の母の爛れたからだを見るのは胸が苦しかったし、良夜さんのかねての叫びに心を動かされなかったわけでもなかったけれど、どこか平静で凪いだ自分がずっといて、それはあたしが当主だったからかもしれなかったし、帳のために生きたいと決めていたからかもしれなかった。
 今も鈍色の指輪はあたしの指に嵌っている。何かを成したいつもりでもなかった、ただ帳の指にはこの指輪は重すぎると思ったから奪っただけで、やっぱりそれも突発的だった。袖を通す装束を選んだ時もそうだったけど、あたしはずっと考えなしだったように思う。
 だけど「あの時」ばかりはあたしは無理だと悟っていた。あたしたちがこの家や、呪いや、運命から本質的に逃げおおせることなど決してないのだということを。
 そんな枷に惑わされず、すべてを脱ぎ捨てて飛び立っていたら、違ったのだろうか。
 帳だけが、飛んでいってしまった。
 特に重みを感じたこともなかったこの枷が、今はとてつもなく重く感じた。あたしだけが罰のようにここに縛られている。なぜ?
 今でも自分が間違っていただなんて思わなかった。綻びを探しても環境さえ違ったら、なんて言葉しか脳裏にはよぎらなくて、でも短いあたしの積み重ねをひとつずつ潰していくと、そこにあったのは、いつだって手を引こうとばかりするあたしの姿と、ずっと引かれ続ける帳の姿でしかなかった。
 昔、あたしの先祖が言ったらしい。きっと、傷をわかちあうためにふたりで生まれる呪いをかけられたんだって。
 帳の背中に残された大きな引き攣り痕を、あたしは本当に預かれていたのだろうかと、今でも後悔する夜がたくさんある。

【四】

 最後の月はとにかく寒かった。年明けで、空から大粒の雪が、桜がそれこそ呪いをかけられたみたいな姿でゆっくりと舞っていた。
 だけど多くの人はそのさまを楽しみ、新しい年の幕開けのお祝いとしていたようで、京は賑やかだった。
 その頃には髪を結ぶのをやめていた。寒くて首元が冷えるし、そんな気力もなかったから。
 だけど娘の春日はあたしに髪を梳かすことをねだって甘えたから、朝の冷気の中、彼女の長い髪をていねいに梳いてやった。
 彼女はたいそう喜んで、到着したばかりのあたしの孫、曙や、帳がついぞ会うことのなかった孫の眉を連れて雪景色の中に消えていった。
 彼女らは本当に元気な子供たちで、あたしがこの家に来た頃とは全然違っていた。あの時は家の中だけが冬のようだったけど、今はまるでずっと春か夏みたいに賑やかでせわしない。
 帳がいたら、もしかすると喜んだのかもしれない。

 そんなことを思いながら三人を見送るあたしの背中に、静かに剣呑とした目つきを送る人物がひとりいた。帳の息子、桂だった。
「…あなたは出掛けないんですか?」
 そう慮る桂だけど、あくまで社交辞令に過ぎないことをあたしは知っている。凡庸なあたしが当主であることを桂は嫌っていたし、きっと帳がいなくなってから大きな穴のようになってしまったあたしの冷めた心も彼は見透かしていた。帳や良夜さんに似て賢い子だ。
「あたしはいいかな」
 つとめて明るく言った。
「寒いし、体に障りそうだしさ」
「父さんがいないからですか?」
 言い訳がましいあたしの言葉を切って、食い気味に桂が遮った。そのとおりだったからあたしは黙り込む。
 そんなあたしを気遣うでもなく淡々と彼は口を開く。
「あなたや父さんは、前当主のことを快く思っていないと聞いていましたが、僕からしてみればたいして変わらない。…春日が死にかけた時だってあなたは真っ先に父さんを案じていたし、今だってそうだ」
「…あたしはみんなのためなら、何度だって戦えるよ」
「最後くらい、そのくだらない利他主義ごっこをやめたらどうですか?」
 桂はまたあたしを睨め付けた。ちょっと昔のあたしだったらそれに苛立ちを隠せなかったかもしれないけど、今はどうとも感じない。帳がいなくなってからすぐに感情という名の花は全部枯れてしまって、今は死んだように沈黙する庭が広がるばかりだ。
 そんなつもりではなかった。あたしなりに周りの人を案じ、清く正しく明るく生きてきたつもりだった。でも帳を失った途端にすべての力が抜けてしまったのだから、やっぱり彼の言う通りだったのだろうと思う。
「…、ごめんね。いい当主に、いい親になれなくて」
「……そんなことを言いたいわけじゃありません」
 彼はそれまでの鋭い表情をわずかに歪め、バツが悪そうに小さく俯いた。言い過ぎたと思ったのだろう。それが彼の若さであることはよくわかっていたから、あたしも特に咎めなかった。老け込んだなと思う。
「桂は、あたしのことが嫌い?」
「……」
「じゃあ、帳のことは?」
「…………」
「あなたは帳が神様になるって知って、春日と一緒にあたしを止めたよね。…帳のためだった?」
 ふいに問うと桂は眉間の皺を濃くして「そんなんじゃありません」と苛立った。
 彼は見た目こそ帳によく似ているけど、帳のしなかった顔をよく見せる。帳はもっといつも全てを諦めたみたいにする人だったけど、桂はその正反対で、決して諦めた顔をする子ではなかった。それが少し羨ましくて腹ただしかった。帳だって周りに諦められていなかったら、あんな顔はしなかったかもしれないのに。
「頼まれたから、してやっただけです。僕はどちらでもよかった」
 どうせあれは、あなたと父さんの間の茶番劇でしかなかった。そう呟いてそれきり桂は黙り込んでしまった。
 そのようすを見てふと、まるで親に構われなくて拗ねている子供そのものだと気づいた。それからすぐに逡巡して心の中で謝った。ごめん、そうだよね。あなただって諦められてるって感じているんだよね。
 帳の姿が桂と重なって、そしてすぐに霧散していった。彼らは本当によく似ているけど、全然違う生き物だ。そして、諦められることを選んだのはほかでもない帳で、諦めないことを選んだのもまた桂なんだと。
 そう思うと、もうとうに忘れたと思われた、槍で貫かれるような痛みが蘇った。ここに帳はいなくて、あたしの選択の結末がここにある。
 引きつれた背中の傷跡をあたしに見せもしないまま歩いていってしまった帳の姿が、浮かんでは消えた。

「桂」
 ずんと重い指輪を外して見せる。多少呆けた顔をしていた桂だったけど、すぐに意図に気がついて驚いた表情をした。なぜあたしが指輪を譲る気になったのか、理解が追いつかないような顔だった。
「本当はね、とばちゃんが当主になるはずだったの。でもあたしが無理やり奪ったの。彼に重荷を背負わせたくなくて」
 桂の右手を取る。帳よりは幾分か骨張って大きい男らしい手をしていて、やっぱり別物なのだと感じる。
「でもね、間違ってたみたい。何もかもから守ってあげることが、とばちゃんから傷を引き受けることにはつながらないんだって、いなくなってから知ったの」
 指輪は不思議な力を持っていて、あたしが今まで通していた指から桂の節だった指にうつすと、なんの違和感もなくそこにおさまった。勝手に縮んだり大きくなったりする力を持っていた。
 桂の指に合わせて大きくなったということは、つまりあたしが彼を次の当主に選んだことを、指輪も理解したということだ。
 一度膨らんだ指輪は、桂が次の当主を決めて譲るまで、もう縮むことはない。あたしのもとにはもう帰ってこないのだ。あの秋空に溶けていった帳のようにだ。
「…だから、あなたの血の中にいる帳に、この指輪を返すね」
 桂は目を丸くすると、心底呆れたように口を歪めてあたしを見た。馬鹿馬鹿しいといわんばかりの目つきだ。
「そうですか」
 パッとあたしの手を払うと、小さく嘆息して去っていく。
「最後までそればかりなんですね、あなたは」
 その声色は怒りと不満に満ちていたけれど、薄赤の羽織に包まれた背からは見つめられないことへの悲哀が潜んでいるように思えた。
 それでいい。あたしにはどうやら結局、帳しかいない。子供たちや先祖のために戦えるなんて嘘を重ねられるほどの強さももうなかった。
 だけど春日はあたしとは違う確信だけはあった。すでに二度死にかけた春日は、けれどぐちゃぐちゃになった時に心まで奪われた帳とさえも違っていて、いつも真っ直ぐだったから。あたしたちとは全然違う春日をこそ、実はあたしは信じていた。
 春日の手に指輪は嵌まらないけど、桂の手にある指輪の重みを春日は知らずに気づいて抱えてくれる。その確証だけは不思議とあった。
 あたしにも帳にも、どうにもする力なんかなかったらしいけど、ふたりはきっとそうじゃない。
 来た時からずっと、本物のひなたみたいに家を照らしていた彼らなら。

「帳、あたし、これでよかったよね」
 誰もいなくなった部屋の中は、むしろ心地いいくらいの冷たさだ。障子を開けると冬の冷気が容赦なく飛び込んでくる。孤独でしゃんとした、これこそが自分の本当の姿だったようにさえ、今は感じられる。
 水瓶の底は寂しさに満ち満ちていたような気がしていたけど、振り返ってみれば、今この家よりはずっと居心地が良かった。
 あたしには些か、もうこの家は眩しすぎる。

<了>