ポチっとな

 杉村の身を襲ったのは、実に情けない衝撃だった。
「やだ。お前、時々スゲー怖えもん」
「……怖い?」
「気づいてねえの?」
 お得意の挑戦的な微笑を覆い隠すほどの、本物の、ドン引き。ラインナップにこんなプリセットが備わっていたとは初耳だ。少なくともよそでは見たことがない。その事実に安堵すればいいのか、それとも猛省すべきか。杉村が取ったのは当然、後者である。
「どのあたりが……?」
「マジかよ。本当に自覚ない?」
「すまん、本当にない」
 三村はううんと唸った。腕組み、探るように杉村を見上げ、左手の人差し指で右肘をトントンと叩いた。視線をすっと逸らし、俯きがちにその指の動きを見つめてから、
「命令っぽくなる、お前。たまに」
「命令」
「あの時も『声出せよ』って。俺の手掴み上げながら言ってきたんだぜ」
「掴……?」
「それで俺が躊躇してると、無理やり口に指突っ込んで、『早くしろよ』って」
 言われてみれば。杉村の脳裏にいくつかの心当たりが思い浮かび、それらはやがて徐々に、強烈な羞恥の塊となって圧し掛かった。確かに覚えがある。酩酊めいてあやふやだが、やった。三村のハイトーンカラーのつむじを見下ろす間にも、放物線じみて己の頬に温度が集まるのがはっきりとわかった。
「で、『イけよ』ってお前が言うだろ。それで俺がイくだろ。そしたらお前、嗤ってるんだよ」
「嘘だろ」
「嘘ついてるように見えるかよ」
 三村は顎を上げて杉村をねめつけた。その目尻が若干赤く染まっていた。原因は二通りある。ひとつは明け透けな夜事情を説く必要性への照れで、もうひとつは単なる(だが激しい)泣き痕だ。
「スイッチが入るタイミングもいまいちわかんねえんだよ」三村の心地の良い中低音が困りきっていた。「興奮してる時になるのかと思ってたけど、そうでもねえみたいだし。乗り気じゃないように見えてたのに、いきなり怖くなる時もあるしさ……」
 杉村はその語り草に甚だしい罪悪感を抱きつつ、ふいに、まさに、昂揚の影が差すのを感じた。
 は?
 差し込んだ影に思いきり動揺を叩き込んだ。危なげな兆候を一旦無視して、平静を繕う。
「そういう時って、朝まで何発もスる羽目になるし」
「そう、だったか」
「だから、当分ヤダ」
「は」
 せっかくの平静を突き破り、諸々の精神的な打撃が吐息となって落ちこぼれた。
 怖い?
 怖い。
 そうか、怖いのか。俺は。
 守護を信条に掲げてきた杉村の、心の中の祭壇に、派手な亀裂が走った。
「悪かった……」
 その亀裂に急かされて、杉村は力なく謝った。「い、いや、いいんだけどさ」三村のフォローがあまりにもらしくなく、それでよけい、ドン引きの表情が傷口にリフレインした。
「しばらく、やめよう。そうだな。お前のいうとおり」
 杉村はか細い声を漏らしながらゆらりと体を傾げた。足首を外へ差し向ける。今自分に最も必要なのは、甘やかな恋人との時間などではない。鍛錬だ。
 身も心も鍛え上げる。律する努力が欠けていたのだ、たぶん。祭壇は寸秒足らずで燃え盛った。長年の修行は、流れ作業というかたちで祟ってしまっていたに違いない。だからこんなことになる。カテゴリーはどうあれつまり己は、三村を傷つけたのだ。
 インナーの下にある杉村の筋肉が悲壮をまとったとき、三村はその背を呼び止めた。「あのさ」
「なんだよ」
「たまになら、いいよ」
 杉村は身体ごと回して振り向いた。頼りなげに佇む三村の、目尻以外の赤いところの数々に杉村は気が付いた。耳や頬、細い首。真ん中のかさついた薄い唇。
「そりゃ、毎回だとしんどいけど」
 その時杉村は、昂揚の影を落とした物体の正体を識った。述べる三村の声がいつもより割合低く、時々枯れて掠れているのだった。その喋りづらそうなしぐさが、昨晩を強く匂わせていた。
 杉村はもう一度唱えた。鍛錬だ。おまけに写経もする心持だった。
「……月一くらいなら、別に?」
「お前な」
 杉村は用意した心中の半紙をびりびりにちぎり捨てて怒気をにじませた。「どっちなんだ」
「だって」
 三村はどっちともつかずな目線で杉村を見据えた。主導権を取るか、本気で突き放すか、その惑いの中心を結局本能が突き抜けているような、そんな顔つきだった。
 杉村はその顔つきに負けて、また近づいた。怖がらせないように注意を払って右頬に触れる。無骨な親指が拾ったのは、今杉村の顔面に芽生えているのと、ちょうど同じくらいの高温だった。
「俺がたまにおかしくなってるんだとしたら、それはお前のせいだよ」
 杉村の声は幾分地に足ついたが、やはりか細かった。
「もしかしてまたスイッチ入れちゃった? 俺」
「入った」
「そっか」
 なら、今夜も手ひどくされちゃうんだろうな。
 三村の艶やかな諦めが、合図だった。